*********************橋本知事のメールマガジン(No.61)**********************

==平成15年4月17日 NO.61 散りゆく桜のごとく ========


 愛媛県の西端に突き出した日本一長い半島、佐田岬のほぼ真ん中に瀬戸町三机という小さな漁村があります。かつて戦争中には、特殊潜行艇の訓練基地のあった所ですが、今では御多分に洩れず過疎と高齢化が急速に進んでいます。

 この町でおよそ半世紀にわたって地域医療に我が身を捧げてきた医師、佐々木豊彦さんを偲ぶ会が、先日、地元瀬戸町の町民センターで開かれました。

 佐々木先生との出会いは、僕がNHKの記者として昭和天皇の崩御の報道に携わった直後のことで、はるばる渋谷の放送センターを訪ねてこられた佐々木先生夫妻から、三机での講演のご依頼を受けたのです。

 初対面のその時から佐々木先生はホームドクターの大切さや、お年寄りには、できるだけ住み慣れた自宅で最期を迎えさせてあげたいといった、地域医療への思いを熱っぽく語られました。

 その情熱とユーモアあふれるお人柄にひかれて二つ返事で講演をお引き受けしました。タイトルをどうしたかはよく覚えていませんが、“昭和天皇と健康”をテーマに日々の暮らしの中での健康づくりの大切さをお話したように思います。

 佐々木先生が郷里の三机で開業をされたのは、戦後間もない昭和23年のことでした。それ以来、母校の大阪大学に戻って研究活動をされた4年間を除けば、去年5月に81歳で亡くなるまで、生涯現役として地域の医療を担ってこられました。

 また、日本桜の会の会員で、こよなく桜を愛された佐々木さんは、ご自宅の近くに建てられた山荘をはじめ、ふるさとの山々に桜の木を植えられました。

 ですから縁あって僕が、お隣りの高知県の知事になってからは、知事公邸の庭に一本のしだれ桜をおすそ分けして下さいました。この桜は、毎年美しい花をつけるようになっています。

 このようによき医療人であるとともに、文人の趣もあった佐々木さんは、往診の道すがらに感じられたことを“診療雑句”と題して句にまとめられていました。

 “段畑に婆ばかりなり桃の花”は、段々畑をおひな様の壇に模した桃の節句の歌ですが、段々畑の中で三人官女よろしくお婆さんたちが並んで、クワを振るっている光景が目に浮かびます。

 また“百婆は猫が代返日向ぼこ”は、縁側でうとうとしている百歳のお婆さんに声を掛けたところ、かたわらにいた猫が代わりに「ニャー」と答えた様子を詠んだものですが、長寿社会の中でのクオリティー・オブ・ライフ(生活の質)の向上を心掛けてこられた佐々木さんの、医療への取り組みの姿勢が伝わってくるような気がします。

 それもそのはず佐々木さんは、もともとは西洋医学を学ばれた方ですが、僕が知り合う以前から、漢方や針灸にも大きな関心をもたれていました。

 ですから「野菜にも血圧を下げる効果のあるものや、逆に高める効果のあるものがありますから、毎日の食生活に気をつけるだけでもかなり体質の改善ができるんですよ」といったお話を伺ったことがあるのを覚えています。

 また、実際に朝鮮人参などの漢方を、自宅で過ごす末期ガンの患者さんに使われて、臨床的な効果もあげていました。今、手元に先生が残された「癌の在宅ターミナルケアの実践」と題する一文があります。

 そこにはガンに冒されながら最後まで自宅で過ごされた、6人の患者さんの事例が紹介されているのですが、その中の一人の、あるおばあちゃんは、ガンの手術をうけて自宅に戻ったあとは、野菜を作ったり天ぷらを食べ過ぎておなかを壊したりと、ガンの患者であることを意識させない暮しをしました。

 そのおばあちゃんが亡くなったあと甥御さんから、「ガンでも老衰と同じような死に方ができるんですね」と言われたのが忘れられないと、先生は記されています。

 また別のおばあちゃんは、ガンの告知をうけたあと「すでに独立している8人の子どもたちに経済的な負担をかけるわけにはいかない」と在宅でのケアを選択しました。

 それ以来1年9ヶ月にわたって、独りでふだんと変わらない生活をしましたが、亡くなる2週間前に独力では暮らせなくなったと悟って家族を呼び集めました。

 そして亡くなる前日に佐々木先生の手を握って、お別れと感謝の言葉を述べられた時には、「返す言葉に窮した」と先生はつづられています。

 こうした事例を踏まえて先生は、「異常な経済成長が国際的な摩擦を招き、急速な人工長命が内的な矛盾をもたらして、人々を孤独な死に追いやっている。もっと人間を中心にした経済を行政には求めたい」と、その一文を締めくくられています。

 振り返ってみますと、20世紀は大量生産に大量消費を組み合すことで、とても便利な社会を作ってきました。それに伴って医療も、技術的に大きく進歩し変化してきましたし、それによって助かった命も数多くあると思います。

 ただ、その分長くなった人生を楽しみ、満足度の高いものにしていくという意味でのクオリティー・オブ・ライフが高まったかといえば、首をかしげざるを得ません。

 こうした反省をもとに、最近ではようやく、スピードや効率化だけを追い求めるのではなく、スローライフやスローフードを楽しもうという流れが出て来ました。

 そうした切り口から見た時、佐々木先生は、患者さんのクオリティー・オブ・ライフを念頭にして、あえてスローメディカルを実践されていた方ではなかったかと思えてきます。

 先生を偲ぶ会の一週間ほど前のことですが、ある大手企業の社長さんとお会いをした時、同居されている90歳を超えたお母さまが、ふだんはぼけも進んでいるのに、2歳10ヶ月のひ孫さんが来るといつも生き生きとして、2人の間にはコミュニケーションが成立するという話をされていました。

 だんだんと衰えてきたお母さまの知能とひ孫さんのそれが、言葉はなくてもぴたりとかみ合っているということなのでしょうが、ひ孫さんと手を取り合って、お手てつないでを歌いながら廊下を歩くお母さまの姿を見ていて、この社長さんは、「人間いかに生きるかではなく、いかに死ぬかだと、つくづく思うようになった」と語られていました。

 この点、佐々木先生は、生と死は表裏一体との考えから、絶えず、いかに死ぬかを自らの医療の基本に据えられていたように思います。

 自らのご命日は昨年の5月末ですので、生前よく口にされていた西行の歌、“願わくば花の下にて春死なむ”は実現できませんでしたが、およそ1年後の偲ぶ会の壇上にはふだん着姿の遺影を囲むように、ご自身が植えられた2本のしだれ桜が見事に咲き誇っていました。


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